(〇一)
① AはBである。
としても、
② A以外はBでない。
とは、限らない。
然るに、
(〇二)
① AがBである。
ならば、
② A以外はBでない。
然るに、
(〇三)
② A以外はBでない。
といふことは、
② AでないならばBでない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(〇四)
② BならばAである。
の「対偶」は、
② AでないならばBでない。
従って、
(〇二)(〇三)(〇四)により、
(〇五)
② A以外はBでない。
といふことは、
② BならばAである。
といふことに、他ならない。
然るに、
(〇六)
① AがBである。
であって、尚且つ、
③ AはBでない。
といふことは、「矛盾」する。
従って、
(〇六)により、
(〇七)
① AがBである。
ならば、
① AはBである。
従って、
(〇一)~(〇七)により、
(〇八)
① AがBである。
といふ「言ひ方」は、
① AはBであり、
② BはAである(A以外はBでない)。
といふ「連言」に、等しい。
従って、
(〇九)
① 私が社長です。
といふ「言ひ方」は、
① 私は社長であって、
② 社長は私である(私以外は社長ではない)。
といふ「連言」に、等しい。
従って、
(〇九)により、
(一〇)
② 社長は私である白(私以外は社長ではない)。
② 社長は鈴木である(鈴木以外は社長ではない)。
といふ「答へ」を期待してゐるのであれば、
① 誰が社長ですか。
② 社長は誰ですか。
といふ風に、「質問」すべきであって、
③ 誰は社長ですか。
といふ風に、「質問」すべきではない。
然るに、
(一一)
なぜ私達は濁音に迫力を感じるのでしょうか。なぜ清音に爽やかさを感じるのでしょうか。実は、この感覚は人類共通のものなのです。
(Amazon.co.jp: 怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか (新潮新書): 黒川 ...)
従って、
(一一)により、
(一二)
① 誰が(濁音) と、
③ 誰は(清音) と
を比べるならば、
① 誰が(濁音)
の方が、「心理的な音量」が、「大きい」。
然るに、
(一三)
② Only I am the 社長(No one but I am the 社長).
といふことを、「強く主張する」場合は、
① I am the 社長.
に於ける、
① I
は、「文強勢(Sentence Stress)」を、受ける(?)ものと、思はれる。
従って、
(〇九)~(一三)より、
(一四)
① 誰が社長ですか。
といふ「質問」に対して、
③ 誰は社長ですか。
といふ「質問」が有り得ないのは、
③ 誰は の方が、
① 誰が よりも、
「心理的な音量」の方が、「小さい」からである。
といふ風に、考へることが、出来る。
然るに、
(一五)
「ある部分」を「強調」する。といふことは、
「その部分」を「目立たせる」ことに、他ならない。
然るに、
(一六)
「その部分」だけを、「通常ではない形」にすれば、
「その部分」は、「目立つ」ことになる。
然るに、
(一七)
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
⑤ 吾欺レ天=吾、天を欺かん。
に於いて、
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
は、「漢語としての、通常の語順」ではない。
然るに、
(一八)
前置による強調
疑問詞と指示詞の前置
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置きすることは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)。
従って、
(一〇)~(一八)により、
(一九)
① 私は鈴木です。
に対する、
① 誰が社長ですか。
に於ける、
① 誰が
が、「心理的な音量による、強調形」であるならば、
⑤ 吾欺レ天。
に対する、
④ 吾誰レ欺。
に於ける、
④ 吾誰
は、「前置による強調形」である。
然るに、
(二〇)
⑤ I deceive him.
である以上、
⑤ I deceive whom.
であるべきである。
といふことから、
⑤ I deceive him.
に対する、
④ Whom do I deceive?
等を、「WH移動」といふ。
従って、
(一七)(二〇)により、
(二一)
⑤ 吾欺レ天。
に対する、
④ 吾誰レ欺。
は、「漢文に於けるWH移動」である。
然るに、
(二二)
よく知られているように、中国語や日本語では wh 句は可視的には移動しない(日本語の wh 疑問文の構造と解釈の問題について ―「演算子」としての ...- Wikipedia)。
疑問詞を前に移動する(wh-移動、ただし中国語は当てはまらない)。 英:What is this?(SVO型 - Wikipedia)。
従って、
(二一)(二二)により、
(二三)
WH移動が有る所の、漢文は、
言語学者が云ふ所の、中国語ではない。
然るに、
(二四)
いづれにせよ、
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
⑤ 吾欺レ天=吾、天を欺かん。
に於いて、
④ 誰を は、「補足語」であって、
⑤ 天を も、「補足語」である。
従って、
(二五)
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
に関しては、「補足語」を含めて、「漢文と訓読」の「語順」が等しく、
⑤ 吾欺レ天=吾、天を欺かん。
に関しては、「補足語」の部分が、「漢文と訓読」の「語順」が逆に、なってゐる。
従って、
(二五)により、
(二六)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふ「言ひ方」は、
⑤ 吾欺レ天=吾、天を欺かん。
のやうな場合には、当てはまるものの、
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
のやうに、「目的語(補足語)」が、英語でいふ、「WH疑問詞」である場合には、当てはまらない。
従って、
(二六)により、
(二七)
「前置(倒置)」を考慮する限り、「漢文訓読」に於いて、「語順」が「反対」であるならば、その時に限って、「その語順」は、「補足構造」を表してゐる。とは、言へない。
平成二七年〇三月一四日、毛利太。
① AはBである。
としても、
② A以外はBでない。
とは、限らない。
然るに、
(〇二)
① AがBである。
ならば、
② A以外はBでない。
然るに、
(〇三)
② A以外はBでない。
といふことは、
② AでないならばBでない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(〇四)
② BならばAである。
の「対偶」は、
② AでないならばBでない。
従って、
(〇二)(〇三)(〇四)により、
(〇五)
② A以外はBでない。
といふことは、
② BならばAである。
といふことに、他ならない。
然るに、
(〇六)
① AがBである。
であって、尚且つ、
③ AはBでない。
といふことは、「矛盾」する。
従って、
(〇六)により、
(〇七)
① AがBである。
ならば、
① AはBである。
従って、
(〇一)~(〇七)により、
(〇八)
① AがBである。
といふ「言ひ方」は、
① AはBであり、
② BはAである(A以外はBでない)。
といふ「連言」に、等しい。
従って、
(〇九)
① 私が社長です。
といふ「言ひ方」は、
① 私は社長であって、
② 社長は私である(私以外は社長ではない)。
といふ「連言」に、等しい。
従って、
(〇九)により、
(一〇)
② 社長は私である白(私以外は社長ではない)。
② 社長は鈴木である(鈴木以外は社長ではない)。
といふ「答へ」を期待してゐるのであれば、
① 誰が社長ですか。
② 社長は誰ですか。
といふ風に、「質問」すべきであって、
③ 誰は社長ですか。
といふ風に、「質問」すべきではない。
然るに、
(一一)
なぜ私達は濁音に迫力を感じるのでしょうか。なぜ清音に爽やかさを感じるのでしょうか。実は、この感覚は人類共通のものなのです。
(Amazon.co.jp: 怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか (新潮新書): 黒川 ...)
従って、
(一一)により、
(一二)
① 誰が(濁音) と、
③ 誰は(清音) と
を比べるならば、
① 誰が(濁音)
の方が、「心理的な音量」が、「大きい」。
然るに、
(一三)
② Only I am the 社長(No one but I am the 社長).
といふことを、「強く主張する」場合は、
① I am the 社長.
に於ける、
① I
は、「文強勢(Sentence Stress)」を、受ける(?)ものと、思はれる。
従って、
(〇九)~(一三)より、
(一四)
① 誰が社長ですか。
といふ「質問」に対して、
③ 誰は社長ですか。
といふ「質問」が有り得ないのは、
③ 誰は の方が、
① 誰が よりも、
「心理的な音量」の方が、「小さい」からである。
といふ風に、考へることが、出来る。
然るに、
(一五)
「ある部分」を「強調」する。といふことは、
「その部分」を「目立たせる」ことに、他ならない。
然るに、
(一六)
「その部分」だけを、「通常ではない形」にすれば、
「その部分」は、「目立つ」ことになる。
然るに、
(一七)
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
⑤ 吾欺レ天=吾、天を欺かん。
に於いて、
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
は、「漢語としての、通常の語順」ではない。
然るに、
(一八)
前置による強調
疑問詞と指示詞の前置
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置きすることは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)。
従って、
(一〇)~(一八)により、
(一九)
① 私は鈴木です。
に対する、
① 誰が社長ですか。
に於ける、
① 誰が
が、「心理的な音量による、強調形」であるならば、
⑤ 吾欺レ天。
に対する、
④ 吾誰レ欺。
に於ける、
④ 吾誰
は、「前置による強調形」である。
然るに、
(二〇)
⑤ I deceive him.
である以上、
⑤ I deceive whom.
であるべきである。
といふことから、
⑤ I deceive him.
に対する、
④ Whom do I deceive?
等を、「WH移動」といふ。
従って、
(一七)(二〇)により、
(二一)
⑤ 吾欺レ天。
に対する、
④ 吾誰レ欺。
は、「漢文に於けるWH移動」である。
然るに、
(二二)
よく知られているように、中国語や日本語では wh 句は可視的には移動しない(日本語の wh 疑問文の構造と解釈の問題について ―「演算子」としての ...- Wikipedia)。
疑問詞を前に移動する(wh-移動、ただし中国語は当てはまらない)。 英:What is this?(SVO型 - Wikipedia)。
従って、
(二一)(二二)により、
(二三)
WH移動が有る所の、漢文は、
言語学者が云ふ所の、中国語ではない。
然るに、
(二四)
いづれにせよ、
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
⑤ 吾欺レ天=吾、天を欺かん。
に於いて、
④ 誰を は、「補足語」であって、
⑤ 天を も、「補足語」である。
従って、
(二五)
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
に関しては、「補足語」を含めて、「漢文と訓読」の「語順」が等しく、
⑤ 吾欺レ天=吾、天を欺かん。
に関しては、「補足語」の部分が、「漢文と訓読」の「語順」が逆に、なってゐる。
従って、
(二五)により、
(二六)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふ「言ひ方」は、
⑤ 吾欺レ天=吾、天を欺かん。
のやうな場合には、当てはまるものの、
④ 吾誰レ欺=吾、誰をか欺かん。
のやうに、「目的語(補足語)」が、英語でいふ、「WH疑問詞」である場合には、当てはまらない。
従って、
(二六)により、
(二七)
「前置(倒置)」を考慮する限り、「漢文訓読」に於いて、「語順」が「反対」であるならば、その時に限って、「その語順」は、「補足構造」を表してゐる。とは、言へない。
平成二七年〇三月一四日、毛利太。
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