このブログは、PC上では「縦書き」で表示され、マウスポインタが、「縦書きの部分」にある時に、マウスのホイールを回すと、左右にスクロールし、「横書きの部分」では、上下にスクロールします。下に見えてゐる、スクロールノブでスクロールする場合は、左右にだけスクロールします。
(〇一)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
〔 〕は、「括弧」とし、
( )も、「括弧」とする。
(〇二)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
① 不 は、「括弧の上」とし、
① 読 も、「括弧の上」とする。
(〇三)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
「括弧の上」は、「括弧の中」を読んでから読む。
とする。
従って、
(〇一)(〇二)(〇三)により、
(〇四)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
① 我 は、そのまま読む。
① 我不 は、
① 我不〔常読(漢文)を読んでから読む。
① 我不〔常 は、そのまま読む。
① 我不〔常読 は、
① 我不〔常読(漢文 を読んでから読む。
従って、
(〇四)により、
(〇五)
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「漢文」は、
② 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「語順」で、「訓読」される。
然るに、
(〇六)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(〇五)(〇六)により、
(〇七)
① 我不〔常読(漢文)〕=
② 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」は、
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」の、
①〔( )〕
といふ「補足構造」を、反映してゐるし、
② 我、常には漢文を読まず。
といふ「訓読」は、
② 不=ず。 以外は、
① 我 不 常 読 漢 文
といふ「漢字」を、そのまま、使ってゐる。
然るに、
(〇八)
② 私は常には漢文を読まない。
の「中国語訳」は、例へば、
③ 我总是不读中国的经典。
である。
(〇九)
私は、所謂、「中国語」が、全く分からないものの、
③ 我总是不读中国的经典。
には、おそらく、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」は、無い(?)はずであるし、
少なくとも、
① 我不常読漢文。
の中に、
③ 总是不读
といふ「漢字」は無い。
従って、
(〇七)(〇八)(〇九)により、
(一〇)
① 我不常読漢文=
① 我不〔常読(漢文)〕=
② 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」が、可能であるにも拘わらず、敢へて、
③ 我总是不读中国的经典。
のやうな「中国語」を学ばなければ、
① 我不常読漢文。
のやうな「漢文」も理解できない。
といふ主張には、納得がいかない。
(一一)
和習(わしゅう)または和臭(倭臭)とは日本人が漢文を作る時に、日本語の影響によっておかす独特な癖や用法。江戸時代に荻生徂徠によって指摘された(ウィキペディア:和習)。
とのことであるが、
現代中国語に習熟すれば、「和習」ならぬ、「現代中国語習」に染まらないとも、限らない。
(一二)
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」の、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」を把握せずに、
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」を理解することは、有り得ない。
(一三)
① 我不常読漢文。
といふ「白文」を、
② 我、常には漢文を読まず。
と「訓読」してゐるにも拘わらず、
① 我不常読漢文。
といふ「白文」の、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」を把握してゐない。
といふことも、有り得ない。
然るに、
(一四)
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」を、例へば、
③ ガフツジョウドクカンブン。
といふ風に、「音読」しても、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」を把握してゐるとは、限らない。
従って、
(一五)
さすがに、現在においては、「漢文訓読法」でなければ、日本人だけでなく、中国人も中国の古典は理解できない、などという主張をする者はいなくなった。今から考えてみれば「漢文訓読法派」は単に現代中国語ができなかっただけのことではなかったか、そのようにさえ思えてくる(勉誠出版、「訓読」論、2008年、2頁)。
とのことであるが、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」を把握せずに、
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」を理解することは、有り得ないが、
そのためには、
② 我、常には漢文を読まず。
といふ「訓読」こそが、最も、「有効」である。
といふ、ことであれば、
「漢文訓読法」でなければ、日本人だけでなく、中国人も中国の古典は理解できない。
といふ風に、言ひたくなる気持ちも、分らないではない。
平成二七年〇三月〇二日、毛利太。
(〇一)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
〔 〕は、「括弧」とし、
( )も、「括弧」とする。
(〇二)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
① 不 は、「括弧の上」とし、
① 読 も、「括弧の上」とする。
(〇三)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
「括弧の上」は、「括弧の中」を読んでから読む。
とする。
従って、
(〇一)(〇二)(〇三)により、
(〇四)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
① 我 は、そのまま読む。
① 我不 は、
① 我不〔常読(漢文)を読んでから読む。
① 我不〔常 は、そのまま読む。
① 我不〔常読 は、
① 我不〔常読(漢文 を読んでから読む。
従って、
(〇四)により、
(〇五)
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「漢文」は、
② 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「語順」で、「訓読」される。
然るに、
(〇六)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(〇五)(〇六)により、
(〇七)
① 我不〔常読(漢文)〕=
② 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」は、
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」の、
①〔( )〕
といふ「補足構造」を、反映してゐるし、
② 我、常には漢文を読まず。
といふ「訓読」は、
② 不=ず。 以外は、
① 我 不 常 読 漢 文
といふ「漢字」を、そのまま、使ってゐる。
然るに、
(〇八)
② 私は常には漢文を読まない。
の「中国語訳」は、例へば、
③ 我总是不读中国的经典。
である。
(〇九)
私は、所謂、「中国語」が、全く分からないものの、
③ 我总是不读中国的经典。
には、おそらく、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」は、無い(?)はずであるし、
少なくとも、
① 我不常読漢文。
の中に、
③ 总是不读
といふ「漢字」は無い。
従って、
(〇七)(〇八)(〇九)により、
(一〇)
① 我不常読漢文=
① 我不〔常読(漢文)〕=
② 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」が、可能であるにも拘わらず、敢へて、
③ 我总是不读中国的经典。
のやうな「中国語」を学ばなければ、
① 我不常読漢文。
のやうな「漢文」も理解できない。
といふ主張には、納得がいかない。
(一一)
和習(わしゅう)または和臭(倭臭)とは日本人が漢文を作る時に、日本語の影響によっておかす独特な癖や用法。江戸時代に荻生徂徠によって指摘された(ウィキペディア:和習)。
とのことであるが、
現代中国語に習熟すれば、「和習」ならぬ、「現代中国語習」に染まらないとも、限らない。
(一二)
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」の、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」を把握せずに、
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」を理解することは、有り得ない。
(一三)
① 我不常読漢文。
といふ「白文」を、
② 我、常には漢文を読まず。
と「訓読」してゐるにも拘わらず、
① 我不常読漢文。
といふ「白文」の、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」を把握してゐない。
といふことも、有り得ない。
然るに、
(一四)
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」を、例へば、
③ ガフツジョウドクカンブン。
といふ風に、「音読」しても、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」を把握してゐるとは、限らない。
従って、
(一五)
さすがに、現在においては、「漢文訓読法」でなければ、日本人だけでなく、中国人も中国の古典は理解できない、などという主張をする者はいなくなった。今から考えてみれば「漢文訓読法派」は単に現代中国語ができなかっただけのことではなかったか、そのようにさえ思えてくる(勉誠出版、「訓読」論、2008年、2頁)。
とのことであるが、
① 我不〔常読(漢文)〕。
といふ「補足構造」を把握せずに、
① 我不常読漢文。
といふ「漢文」を理解することは、有り得ないが、
そのためには、
② 我、常には漢文を読まず。
といふ「訓読」こそが、最も、「有効」である。
といふ、ことであれば、
「漢文訓読法」でなければ、日本人だけでなく、中国人も中国の古典は理解できない。
といふ風に、言ひたくなる気持ちも、分らないではない。
平成二七年〇三月〇二日、毛利太。
0 件のコメント:
コメントを投稿